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おしらせ :
W^3a開設。new!
機能とデザイン - 日本建築史レポート追加。new!
建築のページ
追加。new!設計物件はまだ模型写真だけ。鋭意制作中。
弓の挙動と手の内の方法プリント完成。ページ1 ページ2
ゆみの会指導者手引完成。
欲しいのもメモ :
ライトスタンド
アーロンチェアLC4ハイスピードカメラ燃料電池自転車
気になる人メモ :
西川史子チュートリアルホンマタカシ


061025
 今週末10月28(土),29日(日)は東京工業大学の工大祭2006です。
 ボクは正門に4.5mのを建ててオープンキャンパスで学生講演します。三度の飯より塔が好きな方、いまさら東工大(特に建築学科)を再受験しようという大学生、ぜひお越し下さい。あと工大祭史上初のミスコンも開催されます。無料お笑いライブも、全国金賞のアカペラコンサートも、理工系最高峰の研究室公開体験授業も、参加型プレゼント企画も、アハ体験の茂木さんの講演会も、あります。東工大は目黒や渋谷から10分ぐらいのところです。
 (工大祭はのべ5万人が来場する、都内ではかなり大きい方の学園祭です。見所盛りだくさんできっとすごい楽しいはずです。「はず」というのは、ボクは実行委員だから純粋に来場したことないためです。)
 篠原一男先生の百年記念館とか谷口吉郎先生の講堂とか清家清先生の事務棟とか安田幸一先生のプロムナード・土建棟ファサードもありますよ。
 
 
 


061005
 
 これは学科の京都実習での食事。あさりとトマトのパスタと、鮹のカルパッチョと水菜のサラダ、あとワイン。
 実習は神社仏閣ほか日本建築を見まくる1週間の旅で、朝から夕方までずっと歩き続け、夜はウィークリーマンションで過ごす。所詮貧乏なボクら国立大学生はできる限り自炊で乗り切ることにしたんだけども、これがなかなか旨い。毎夜の晩酌は当然の帰結だった。

 先日弓道の先生から旨いと甘いはもともと同じ言葉なんだと聞いた。先生は「あめぇ」と「うめぇ」を声に出して説明されたが、なるほど確かに「あめぇ」も「うめぇ」も聞こえる音はすごく似ている。
 そう思ううちに中学校の国語で習った狂言附子(ぶす)の一節に思い当たった。
 附子のあらすじはこういうものだ。主人が家を留守にする間、猛毒の附子(トリカブト毒)の壺を開けるなと言われた従者2人。実は壺の中には主人の好物である砂糖が入っているのだが、それに気づいた従者は恐る恐る壺の中身を食べて「こんなうまいものは食べたことがない」という。しばらくして気がつくと主人の言いつけを破ったことに気づき、従者は主人のコレクションの美術品を次々に壊しだす。罰として附子を食って死のうとした、と言い訳をするためであった。
 ここで砂糖を食った従者は「うまい」と言っている。ここで「旨い」と「甘い」は同じ意味である。
 たわむれに辞書を引いてみたところ、こう書かれていた。「うまい【旨い・甘い】 1(「美味い」とも)味覚を満足させるような快い味わいについていう。味がよい。おいしい。」[国語大辞典(新装版)小学館 1988]

 翻って今日の料理の表現について。
 テレビを見ていると、表現は3つのタイプに分けられる。ひとつめは[素人稚拙タイプ]で、「うまい」「たまらない」など技巧の無いストレートな表現を連呼するもの。ほかに「甘い」「柔らかい」などとも表現されるが、とにかくボキャブラリーに乏しいのが特徴。グルメリポートの経験に乏しいリポーターがありきたりの語でその場をしのぐのに使うが、カメラの前の料理をブラウン管の前の視聴者まで届ける役目を全く果たしていない。ホンジャマカ石塚のグルメリポートのストレート全力投球な言語表現もこのタイプにあたるが、フレーミングや動きなど見せ方において、また食べる前の喋りについて細心の注意を払っている。シンプルな表現の中の技巧が見所だ。同じでぶやファミリーのパパイヤ鈴木は出身が芸人でないからか、技巧のない稚拙な表現どまりであはあるが。
 ふたつめは[専門家分析タイプ]で、素材が技術について分析的に言い当て、料理の深い理解を表現とするもの。分析によって多くの情報を伝え、視聴者の脳内に料理を再構築するねらいによるものか、あるいは料理間に差別化を図るためのものか。ラーメンを食べて「魚介ベースのシンプルなスープなんですが、揚げエビが加わることでアクセントの効いた味わいに仕上がっていますね」といったらこのタイプだ。料理の鉄人の試食などに見られたものだが、近年では王様のブランチの新人アイドルのグルメリポートに置いてもこれが見られる。この進化はめざましいもので、制作部からの指導があったことは否定できない。若年のアイドルから自然発生的に出てくる表現ではないように思えて仕方ないのだ。
 
 みっつめは[彦麻呂飛躍タイプ]で、「秋の味覚の大運動会やー」「松茸のリフレクソロジーやー」「どんぶりのIT革命やー」との発語と同時に斜め上に目線を送って決め顔を決める、あの彦麻呂独自の表現である。料理そのもののことから飛躍して関係ない分野の単語を引き合いに出して表現するこの方法は、隠喩そのものであり、文学においてより高次の技巧である。しかし料理そのものを表現する前のタイプにみられた直球性は失われるリスクは否定できず、近頃の彦麻呂は息切れの感がある。しかし料理表現から飛躍して芸にまで昇華させた彦麻呂の才覚は抜きん出ており、今後のグルメリポートにおいて古典となって語り継がれていくことであろう。

 つい熱が入って長くなったが、着目すべきは[素人稚拙タイプ]の「甘い」という表現だ。このタイプは他より原始的なレベルにあるが、「旨い」と「甘い」を混同していることがおもしろい。何がって、附子と同じことが起こっているからだ。
 1000年の時を隔てても「旨い」と「甘い」が同源にあることが表出するなんて、すごくロマンチックじゃないか。


061002
 総合表現における分析と統合について。弓道と建築を例にとって。

 弓道を続けていると、あるところで2種類の道のどちらかを進んでいくことになると先生から聞いた。ある人は感覚や直感を拠り所にして弓を引き、別のある人は理論を拠り所に射を組み立てていく。おそらく手取り足取り教えられる段階を過ぎて、自分で稽古を律していく機会をもったときに、稽古の拠り所が必要になるためであろう。何も考えずに弓を引きまくれるほど人間は機械的ではなくて、何らかの理想のモデルとそこへの到達手段をイメージしないとやってられない。(というのは気取りすぎで、今よりちょっと巧くなった自分を想像するのだ。) 現状維持を目標にするなんて退屈すぎるのだ。
 ボクは明らかに理屈で弓を引くタイプだそうだ。理屈タイプの人が感覚を頼りにすることもあるのはいうまでもないが、とにかく理屈側に偏っている。たぶん弓道を単純に理屈の複合で把握することができないから、とらえどころがないからこそ、理屈をこねて分かった気になろうとしているのではないか。しかし弓を引き始めてから6年目になるが、一向に弓道を理屈で把握することはできない。言葉を弄して弓道を捕まえようとしてみても、言葉の量が嵩むばかりだ。
 弓を初めて2年くらいのときに、超感覚派の先輩から「そんな分析していっても巧くならないって」と言われたことがあった。その先輩は狩猟民族の眼をして弓を引き、これが武士なんだなぁと思わせるんであるけど、ともかくその言葉はものすごく正しい気がする。弓は頭で引くのではなく、体で引くものだから。
 理屈をこねることが無駄ではない(と考えている)。自他問わず射を客観的に評価しやすく、その効果は二つ期待できる。ひとつは他人を指導する際にいろんな状態をカバーできるということ。もう一つは自分の調子によらず自己評価しやすいということ。
 ところが弓を引く前は理屈っぽく考えてる割に、いざ実践の段になると感覚的な言語に翻訳している。「手の内は弓を倒すモーメントと弓をねじるモーメントが必要で、そのために小指根を支点にして親指根で押すとともに手の平の皮のよじれを併用して…」と普段考えていて、実際に会で思っていることといえば「キュッと締めてグイと押す」ぐらいだ。それでもなお理屈の下支えは実践段階のシンプルな思念にとって不可欠であると思えてならない。
 ここでやっかいなのが、理屈の世界の言葉から感覚的な言葉への変換だ。絶対に理屈は感覚に影響しているんだけど、その影響のしかたがどうもよく分からない。そこはかとなく影響している、といえばいいだろうか。実践のために理屈を勉強しているのだけど、その効果が定かではないというこの状況。スポーツトレーナーがスポーツ巧いわけではないという状況に似ているんじゃないか。

 一転して建築について。学校で習う建築学は他の工学のように科目の名の下に要素がカテゴライズされている。構造、環境、計画、歴史云々というのが科目に割り振られているが、実際の建物はそれらの複合体であり、どれか1分野がすごく良いから建築全体について良いかというと全然そんなことはない。意匠についても同様で、いろんな見方が存在する。プロポーション、歴史的地理的コンテクスト、都市環境への対応等々。いろんな分析の方法はあれど、実際作るときはそれらが総合されるわけで、直感がそれらの決定を支配する。意匠要素を変数にした建築の良さの関数を最大化して…なんていうことはできない。工学部に建築学科意匠系が属しているけど工学化しきれないのはそのせいだと密かに思っている。
 しかし弓道と同様、理屈の集積が最後の直感に影響しているに違いないというのが当面の予想であり、この姿勢の取り方は東工大においてどうやら正統っぽい。しばらくはこの姿勢のまま進んで良さそうだが、やっぱり弓道の時と同様の不安感が拭いきれないのである。


061001
 

 工大祭で絵画・写真展をするということで、手持ちの写真からめぼしいものを見繕ってみた。この写真はそのうちのヒット作。もとの写真から少し補正してみるとすごく格好良くなった。
 この格好良い(連呼)風景は東工大の一角である。正面の建物は故・清家清先生による事務棟。木々に埋もれる端正なプロポーションから謙虚さが滲み出ているようである。手前のプロムナードと芝生は安田幸一先生によりつい昨年完成したもの。以前は噴水があったが、ウッドデッキによる地平の広がりにより、事務棟の清潔な意匠がいっそう引き立てられた。
 東工大内部からは学内の建物はおもしろくないとの声が聞かれる。東大のネオゴシック群や東女のレーモンド建築と同じレベルで語られる建築が東工大にあることを知ってほしいのだが。


060927
 学科の実習授業で京都に行ったのにともなってレポートを書くことなった。
 そのレポートをもって更新不足を紛らわそう。専門じゃないと分からないと思うけど。
 以下レポート。テーマは「日本建築の構造システムと空間」。

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 そもそも構造体は、建築物を力学的に安定させ、現実に存在させる役割が第一義である。建築の規模は彫刻や絵画など他芸術のそれとは異なり非常に大きく、莫大な量の物質で構成される。その大きさを実現するために構造が成立することは何よりも必要な条件であり、構造を無視しては建築であることさえできない。かくして建築はどのような場面においても構造に制約されるのであり、その制約は造形表現を考える段においても顔を出してくる。
 西洋建築と日本建築の構造形式とを比較すると、日本建築における構造と意匠の関係の密接さが浮かび上がってくる。西洋建築の構造形式としては積石造が支配的である。したがって主に壁が構造と空間構成要素となる。この場合、構造の量が多いために積極的に装飾を付加することができ、構造体と装飾の区別はあいまいになりやすい。また表面を覆う装飾について意匠のエネルギーが注がれる。一方で日本は木による軸組造が支配的であり、したがって主に柱と屋根が構造と空間構成要素となる。この場合は構造の量が少ないために、装飾を付加すると非常に目につき、恣意的に映ることとなる。
 西洋建築では造形表現としての建築に構造が従属しており、日本建築では構造が造形を束縛している感が強い。これは先に述べたように日本建築がより建築として原初的なテーマにおいて構想されていると換言できよう。ここでいう原初的というのは、原始的=造形のレベルが未熟と意味でないことは言うまでもない。建築にとってより根本的で独自な問題を扱っていることを意味する。

 日本建築の構造要素が印象に与える割合が大きいということは今まで述べた。日本人は構造と向き合って長い年月を過ごしてきた結果、構造そのものが造形表現の手段するようになったと思われる。あるいは軸組を始めたときから構造体は造形言語であったかもしれない。ともかく、日本人の目は構造を鋭敏に感じるようになっていたことは確実であろう。この土壌を元に、鑑賞者と設計者は共犯的に構造要素の造形言語化を促進させていくこととなる。
 「建築には骨としての野物とそれを被っていく化粧とがある」と大江宏は述べたが、
改めてそう言わなければならないほど日本建築では構造即意匠の表現に見える表現が多かったということである。
 しかしこの言葉を現代建築における鉄骨とカーテンウォールの関係のように解釈するのは浅薄である。日本建築において、軒天井とその裏に隠れる垂木を比べてみれば、前者は化粧であり後者は野物である。ここでは野物と化粧がはっきりと分離されており、先の大江の言葉に適合する。そこで違う例を挙げることにする。化粧垂木や組物などは骨であり野物であるが、同時に明らかに表現の道具すなわち化粧として用いている。ここでは野物と化粧が未分離である。部材の単位で野物と化粧の分類をすると未分離であるといえる。しかし強いて別の解釈をすれば、化粧垂木や組物の表面は化粧の機能を持っており、表面を除いた力学的に必要な部分は野物の機能を持っているともいえる。結局は化粧機能と野物機能に分解できるが、この分離が曖昧で化粧と野物が部材に同居するのが日本建築であると解釈できよう。

 構造体が力学的安定の機能と視覚的表現の機能を併せ持つことを前に書いたが、構造体の造形言語化が促進された先には次の段階がある。すなわち構造体の力学的機能の希薄化・造形的機能の純化である。たとえば大屋根の平行垂木の出隅部や数寄屋建築の曲がった細い床柱などがこれを表している。平行垂木の出隅部は見え方でいえばその他の垂木同様屋根を支える存在であるが、力学的には屋根からぶら下がる存在である。床柱も見え方としては柱の一種であり垂直荷重を支える存在であるが、力学的には全く加重を支えていない。
 もっともこの表現は西洋建築の付柱や現代建築のアーチ型などにも見られる。構造が純粋な造形の道具として進化したと解釈すればR・ベンチューリの言うところと同じとなる。もはや日本建築において構造即意匠は「必要最小限の構造がそのまま表現になる」とはいえず、「構造要素を造形言語として自由に用いている」と解釈すべきである。

 ここまで構造が表現の道具と化すと、構造要素を使ったイリュージョンが可能になる。書院造の蟻壁を例にとってみよう。書院造では柱の見えがかりが床(ゆか)レベルから垂直に立ち上がり、建具のレベル、小壁のレベルを通過していく。途中で柱の前を長押が通過するが、柱はずっと連続しているように見せている。ところが天井の直前で蟻壁が入り塗り込められており、柱の見えがかりが消失する。かくして天井は見えがかりについて柱と切り離され、浮いた軽い印象を獲得する。ここで上部構造は柱によって支えられるという通念を前提として構造のイリュージョンが成立している。
 この方法は現代建築でも使われており、坂本一成先生のHouse Fで顕著に観察できる。House Fでは床レベルから重厚な打ち放しコンクリート壁と剛堅なH鋼の鉄骨柱が立ち上がるが、天井との接続はそれぞれガラスと細い丸形鋼管で行われている。打ち放しコンクリートもH鋼も建築構造としての機能を意識化に刷り込まれているものであり、その通念をによって屋根の浮いた印象を形成している。

 構造の規制が構造による表現の可能性を豊かにしたことは先述の通りである。書院では柱割りのモジュールによって平面の自由度が規制されているが、この規制があるからこそ変化が際だつ。建築に限らず日本における表現はフォーマットにより規制する傾向が強く、一見すると表現が不自由であるようだが、実のところフォーマットによる規制こそが自由を表現するための前提であることは例を挙げるまでもなく明らかなことである。


060905
 ワールドカップでジダンが頭突きしたことについて、当時の口論の内容が公表された。
 それまで予測されていた口論の内容は、マテラッツィが人種差別的な発言をしたのではないかというもの。

 ジ「□×@△○※!」
 マ「うっせーアルジェリア移民!」
 ジダン、頭突き。

 人種のことはよく分からないが、きっとこれはすごく良くない。ナショナリズムが衝突するワールドカップで神経質になっている選手にとってはリーサルウェポンになりえよう。

 一方、製図室でもっぱら有力な説になっていたのはこうだ。

 ジ「□×@△○※!」
 マ「うっせーハゲ!」
 ジダン、頭突き。

 これも良くない。身体的特徴は悪口の王道といえど、切れ味もまた一級品である。ジダンがカッとなるのも無理はない。

 そんな大衆の期待をよそに、実際はこんな口論が繰り広げられていたという。

 (直前にユニフォームを引っ張られたマテラッツィに対して)
 ジ「そんなにユニホームが欲しいなら、後でくれてやる」
 マ「それならお前の姉妹の方がいい」 (参考
 ジダン、頭突き。

 世界が注目する試合で創作落語みたいなやりとりをできる二人は、実はものすごく冷静だったのではないかと思えてならないのだが。


060901
 建築のプレゼンをしてきた。なぜかバーで。

 普段はクラブイベントをやっている吉祥寺のbar dropというところで、たまにミニ建築シンポジウムをやるということで、行ってきた。

  bar dropは普段ならまず入らないであろうお店
 イベントを仕切る人(キュレーター?)の友達が東工大の大学院生で、3年生のところをうろうろしている時に誘っていただいた次第。10分程度のプレゼンだから、と言われて二つ返事で快諾したものの、お金払っているお客さん相手に自分が何をできるのか。過去には卒業制作金賞の先輩や、銀賞の先輩が学生プレゼンをしているこのイベントで。期待と不安が入り交じりながら設計製図の図面の再構成と、生まれて2度目のパワーポイントいじりに打ち込む。
 
 
 
 時間いっぱいまで作業をやっていたり、うちの階段から箱入り模型が転がり落ちたり、雨の中傘をさせずに駅まで模型を運んだりしつつ、なんとかお店までたどり着く。

 
  
 展示を終えるとしばらく待ち時間になったのだが、当たりではDJ/VJのテストをやっていたり、ミラーボールが回っていたりする。学校でプレゼンするのとはえらい違う雰囲気だ。パワポはくだけた感じにしたけど、VJの映像と並置されると思うと不思議な気分。
 
 ほどなくしてゲスト建築家の河内一泰さん、イラストレーター・アートディレクターの黒田潔さん、が、他にも建築家の清水勝広さん、建築家の藤村龍至さんが来場する。
 河内さんは書家のアトリエがTITLEの表紙になった方(あまり雑誌見ないので知らなかった)(上の写真の男性)。ボクのプレゼンについて突っ込みをいれる役だというのでおそるおそる図面を見ていただいたら、身体性の記述についてほめてもらった。この説明で説得力が出るんだそうだ。ありがとうございます。
 清水さんは芸大で河内さんの1年後輩にあたる友人だそうで、芸大の学部卒業直後から誰にも師事せずに独立したというすごい方。極楽とんぼの加藤に似ていて、喋りがすごいうまかった。芸大って芸術家肌の気難しい人ばかりじゃないんだ。
 黒田さんは新宿駅南口の工事囲いのグラフィックを担当した方。ちょっと前まであった白黒のグラフィックを覚えている人も多いかと思う。大学卒業後ソニーでデザイナーをしていたが、夜12時までの仕事の後に3時4時まで植物の絵を描いて、で翌朝出勤するようなことをしていたそうだ。すごいタフ。数年で辞表を出すが、そのとき平井堅のCDジャケットを社内コンペで募集していたそうで、かならず写真を使うことという条件を無視してイラストレーションを出したら平井堅の目に留まり当選。ジャケットは世に出て黒田さんは会社を辞めたという。格好良すぎる。
 藤村さんは過去にこのイベントのゲストに来た方で、東工大の博士課程に在籍中かつ個人事務所を営んでいるかつ新建築に載っちゃったりしている方。
 
 そんななかVJの映像からパソコンの画面にスイッチされ、ジャズをBGMにプレゼンを始めるこの気持ちといったら。
 10分そこそこのプレゼンは終わり、拍手をいただき、河内さんの突っ込みをなんとかこなし、あとはビールを片手にゲストのプレゼンを眺めていた。

 良い経験をさせてもらいました。


060830
 学長の面接を受けてきた。自分がいかに平凡な人間かが分かった。

 ことの発端は学科の助手に声をかけられたこと。呼ばれるままに着いていくと学科長(坂本一成教授)の前に坐らされた。何を言われるのかな、怒られるのかな、でも怒られるのは慣れてるからまぁいいか、と思っていたらこう告げられた。
 「東工大学生リーダーシップ賞の候補者として学科で推薦することになりました。」
 「…そんなもん知らん!」
 とは言わなかったが、そんな賞の存在は知らない。そもそもその頃は設計製図第三の途中だから忙しいわけで、あぁそうなんですかありがとうございます、と思うしかない。
 そのうちに推薦文ができたり工学部長(もちろん知らない人)と面接をしているうちに、いよいよ学長と面接をする段にまで来てしまった。ありがたい話ではあるけど、自分の良さを自分でアピールするような真似は恥ずかしくてしたことがないぞ。

 困って困って困ったあげく、学長面接は就職活動のリハーサルだと思うことにした。
 そう思って学長会議室の重い木の扉を開けるが最後、自分を売り込めない情けない自分が詭弁を振る舞うばかりであった。
 リーダーシップについての自分の見識が無いことがばれた(それまでリーダーシップについての見識があると思いこんでいた)のに加え、建築に対する自分の姿勢さえ分かっていないことが浮き彫りになった。今まで戦略的に行動してきたことが無いだけに、リーダーシップや建築についての一貫した意見を言うことがなかなかできない。口をついて出るのは一般論だけで、それを教授陣は見逃すはずもなく、シャープに弱みを突いてくる。

 あーぁ就活なんてしなくないなぁ、としみじみ思う帰り道。
 賞はもらえるのか。


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